学校法人 星野学園中学校

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在校生用のお知らせ

2017/9/5

失われた時代

難関大特講8月29日第3講の補説です。

本問は、京都大学からの出題です。

スライド1

まず、基礎の確認です。

スライド2

傍線部に対し、「どういうことか?」と問われる場合、多くの場合、傍線部内に

① 比喩

② 指示語

③ 熟語

があります。

① 比喩は、たとえられている実態のほうを書き出します。

② 指示語は、その指示対象を書き出します。

③ 熟語は、

    a.その熟語が示している本文中の話題を書き出します。

    b.その熟語の「意味」に該当する表現があれば、拾い出します。

    c.(b)が困難なら、熟語の辞書的意味にふみこみます。

たとえば、

「太陽が東から昇ることは普遍的だ

という本文に対して、

「普遍的だ」に傍線がひかれ、「どういうことか」と問われている場合、「普遍的」という熟語は、「太陽が東から昇ること」について語っていることになります。それゆえ、「太陽が東から昇ること」は、答案に必須の論点になります。

次に、「普遍的」の意味に該当する本文表現があれば、それを拾えばよいです。たとえば、本文中の別箇所に「いついかなるときも太陽は東から昇る」と書いているのであれば、それがそのまま正解の情報として使用できます。

一方、ない場合には、「(場所や時間がかわっても)例外なくあてはまる」などという「辞書的説明」にふみこむとよいです。

その場合、〈推奨答案〉としては、

「太陽が東から昇ることは、どの場所でも常に例外なくあてはまるということ」

という説明が可能です。

 

*********

 

(問一)を見て行きましょう。

 

スライド3

非常に答えにくい問題ですが、「ターゲット」を決めましょう。傍線部内で最も解読困難な箇所は「欺さねえ」です。本文では「だまさねえ」と読んでいます。

「欺さねえ」とはどのような意味なのでしょうか。

ここを読むだけではさっぱりわかりません。

しかも、この傍線部は「帽子屋の老人の発言」の内部に引かれています。いわば、「引用中」に引かれているのです。引用や例示を筆者が挙げる場合、「何か言いたいこと」があって挙げているわけですから、「例示や引用を出して終わり」ということはないはずです。必ず、筆者なりの「解釈」があるはずなのです。いわば、「引用や例示」を出してまで言いたかったことが、〈地の文〉のほうに書かれているはずなのです。

このような場合は、もう少し先まで読み進めていって、前後関係の構文が似ているところがないかどうか探しに行きましょう。その作業によって、〈相同表現〉を突き止めにいくのです。

スライド4 スライド5

まず、この部分に、

「かれがどんなに老いぼれて目がみえなくなってしまっていても」という表現があります。

これは、老人のセリフの中の

「針もみえねえ。糸もみえねえ。だから~無駄に縫ってるんだ。ただ

という意味内容に概ね当てはまります。

「ても」というのは、「逆接仮定」です。

(「お前がやらなくても俺がやる!」などと言いますよね)

 

セリフの中の「ただ」というのも、「前の部分に条件付けをする」ための語ですから、「前の部分を無条件では受け入れない」という記号です。そのため、「逆接的な文脈」に該当することが多く、「しかし」などに置き換えても意味が通ります。つまり、ここは、帽子屋の老人のセリフ回しと、構文的には似ていることになります。

したがって、「~ても」のうしろにある、

「仕事をいっしんに果たしつづけた」

というのは、非常に重要な論点になります。

端的に答案を書けば、

「帽子屋の手は、仕事をいっしんに果たしつづけたということ」

という解答が得られます。これだけでも②点くらいはもらえるでしょう。

しかし、14cm×3行の解答欄に対して、このくらいの答案ではあまりにもあっさりしすぎています。かりに、「たとえ視力が衰えても」などと追加しても、字数はまだまだ余っています。

注目したいのは、

① 「その」という指示語で話題が続いていること

② この段落の中に、〈生きるという手仕事〉というキーフレーズが何度も繰り返されていること

の2点です。

傍線部との関連箇所に何度も繰り返されている表現があれば、それを解答に含めていくことは〈鉄則〉のひとつです。

しかし、〈生きるという手仕事〉という表現は、〈 〉がついていることからも、筆者の造語的な言い回しであり、そのままでは「説明」として使用できません。

したがって、解答者(我々)の次の作業としては、〈生きるという手仕事〉を、わかりやすく解読していくことになります。

そのまま読んでいくと、「ではなく」があります。「ではなく」の後ろは重要箇所なので、注意して読みましょう。

*****

~ではなく、日に一個ずつ帽子をつくるというしかたで、その手をとおしておのれの〈生きるという手仕事〉をしとげてゆく、ということにあったからだ。生きるとは、そのようにして、日々のいとなみのうちにみずからの〈生きるという手仕事〉の意味を開いてゆくという、わたしの行為なのだ。

*****

後半では、「生きる」という言葉自体が定義されています。〈生きるという手仕事〉という難解な表現の一部を構成する「生きる」という言葉が定義されているわけですから、ここを使用しない手はありません。

説明的にまとめれば、

(生きるという手仕事は・・・)

絶えず手仕事をしとげていく日常の営みにおいて、自らその生の意味づけをしていく個人的行為であるということ。

などと言うことができます。

解釈的に言えば、〈生きるという手仕事〉は、

日常、不断に達成し続けている行為において、「これがおれの生の意味だ」と自分自身でとらえられる営み

を意味すると考えることができます。

帽子屋でいえば、チクチク帽子を縫って帽子を作りつづけていく作業そのものが、「これがおれの生の意味だ」と感得できるものであったのでしょう。

一見すると、「そんなの地味じゃないですか?」とか、「そんなのが生きる意味ってイケてない」などという感想がわいてきそうですが、よくよく考えると、このような地味な作業こそが、「生きる」という本質につながってくるのです。そのことを、筆者は、次の段落で卓抜に表現していきます。

スライド6

*****

「血も流さなきゃ、祖国を救いもしない」生に見えようとひとがみずからの生を〈生きるという手仕事〉として引きうけ、果たしてゆくかぎり、そこにはけっして支配の論理によって組織され、正当化され、補完されえないわたしたちの〈生きるという手仕事〉の自由の根拠がある、というかんがえにわたしはたちたい

*****

という対応関係があります。

ここは、「血も流さなきゃあ、祖国を救いもしなかったからなあ」という箇所が、帽子屋のセリフの中にもあったことに気付けるかどうかがポイントです。

「血も流さなきゃ、祖国を救いもしない」というのは、帽子屋のセリフにもありました。さらに、「~ようと」というのは、「逆接仮定」の構文をつくりますから、構文的にも似通っています。すると、

「みずからの生を〈生きるという手仕事〉として引きうけ、果たしてゆく」

という箇所は、まさに傍線部における「この手だけがおれを欺さねえ」という部分と構造的には対応していると考えることができます。

〈生きるという手仕事〉は、先ほどある程度解決しましたからよいとして、もう少し先を読んでみましょう。

続きを読んでいくと、

そこには」という指示語があり、説明が続いていくことになります。

*****

「支配の論理によって組織され、正当化され、補完されえないわたしたちの〈生きるという手仕事〉の自由の根拠がある。〈生きるという手仕事〉は、それがどんなにひっそりと実現されるものであろうと、権力の支配のしたにじっとかがむようにみえ、しかもどんな瞬間にもどこまでも権力の支配のうえをゆこうとするのだ。

*****

この箇所から、〈生きるという手仕事〉は、

支配の論理から自由である

権力の支配の影響を受けない

などといった特徴があることがわかります。

これらは、〈生きるという手仕事〉そのものの「言い換え」ではありませんが、「特徴」を説明している箇所であるので、解答に追加できるとよい「補足論点」であるとみなすことができます。それゆえ、答案に「必須」とまでは言えませんが、「あるとよりよい」論点になります。実際、この「権力から自由」という情報があるほうが、「どうして〈日々の手仕事〉が生きる意味になるのか」ということにふみこんだことになります。

たとえば、「子育て」を例にとってみましょう。

「子育て」は、おむつをかえたり、食事をつくって食べさせたり、お風呂にいれたり、実に様々な〈手仕事〉を〈毎日〉必要とします。

この作業は、子どもを育てるにあたって、どの国でも、どの地域でも、変わらず必要なことになります。

ということは、自由主義の国でも、共産主義の国でも、社会主義の国でも、つまり、どのような社会体制に支配されていようとも、おむつをかえたり、食事をつくって食べさせたり、お風呂にいれたりすることは、「日常、不断にし続けなければならないこと」です。ということは、その〈手仕事〉は、社会体制の影響に左右されないという点で、社会の支配からは「自由」なのです。

たとえば、「たくさん稼げそうだから医者になりたい」という人がいた場合、それは「医者が高給を得る」という「社会体制」だから、それを目指していることになります。その人は、「医者が薄給」の世界では医者を目指さないでしょう。ということは、社会の支配体制」が変われば、「生き方」そのものが大きく変化してくる可能性があります。その場合、その人の「生」は、ある意味で「社会体制に縛らられた不自由なもの」である、ということもできます。

一方、「人命を救いたいから医者になる」という「意味づけ」を自分自身でしていればどうでしょうか。その場合、その人は、高給であろうが薄給であろうが、医師になるでしょう。そうであれば、「社会体制」からはある程度自由であると言えるでしょう。その人は、日本であっても、アメリカであっても、アフガニスタンであっても、インドネシアであっても、医者になるでしょうから。

多くの人は、このような「権力的支配の体制」に「欺されて」いるのです。

たとえば、

「日本では」→「弁護士の給料が高い」→「だから弁護士になりたい」

という理屈は、日本の社会体制の支配の中で「生」を決めていることになります。

逆を言えば、

帽子屋がチクチク縫って帽子を作り続けることは、「祖国」とは何の関係もなかった。だからこそ、「支配」からは自由であった。だからこそ、「自分の生を自分自身で意味づけた」と言えた。だからこそ、〈手仕事〉だけは「おれ」を「欺さ」なかった。

そのように考えることができます。

以上のことから、「おれを欺かねえ」という表現を説明するにあたっては、「支配」「権力」から「自由」というワードを追加できたほうが、答案の充実度は高まることになります。

スライド9

〈推奨答案〉を見ておきましょう。

スライド10

傍線部内では、「欺さねえ」は「だまさねえ」と読まれていました。「だます」を辞書で引くと「あざむく」とあります。ほぼ同水準での言い換えなので、「説明」としては弱いかもしれませんが、

熟語は、

    a.その熟語が示している本文中の話題を書き出します。

    b.その熟語の「意味」に該当する表現があれば、拾い出します。

    c.(b)が困難なら、熟語の辞書的意味にふみこみます。

という〈方法論的一貫性〉に基づくルールがありました。

(a)はすでにできましたから、(b)か(c)で説明の充実度を上げます。(b)が見当たらないので、(c)で解決しましょう。

以上の判断において、「あざむかない」という表現を入れておくと、1、2点の加点が見込めます。

 

 

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